この世の中は表現の世界

幸せの実感は、不幸の実感があってはじめて感じられるもの

10. この世の中は表現の世界
私たちは何のために生まれてきたのでしょうか?
むずかしい問いですね。私はこう考えます。人はこの世の中に表現をするために生まれてきたんじゃないかと。
まだ30代のはじめの頃、延々と続く壮大なドラマの夢を見て、眼がさめた時「あゝ人生はドラマなんだ」と痛切に思ったことがありますが、人はひとりひとり自分が主役の自作自演のドラマを演じて生きているんじゃないかなという気がします。
自分が意識しているいないに関わらず自分が人生を創りだして、あるいは選択して「今」の状況を生きている。そう思います。
この時代に生まれ、この環境を与えられ自分の生き様を表現していく。悪しきにも表現でき、見事な出来栄えにも表現できる、そうしたカラクリのなかに私たちは生きていると言えるんじゃないでしょうか。
映画も表現、絵画も表現、写真も表現。そうした表現されたものには、光と影がありますね。自然界も光と影の世界ですね。
表現の世界は光と影でなりたっている。人生も表現の世界だから、光と影で創られていく。光だけでも表現できないし、影だけでも表現出来ませんね。
光が善や幸せや美しさを表すなら、不幸や悪や醜さは影としてとらえるとわかりやすいですね。
つまり人生は善や幸せや美しさだけでは表現できないということになります。また、もし人生が光だけだったら、それが光であることにも気がつきません。影があるから光を知ることができますね。
人生で幸せだけの人は、それが幸せであることすらわからないでしょう。幸せの実感は不幸の実感があってはじめて感じられるものだと思いませんか。
善の行いに心が歓ぶのも、悪の行為に嫌悪する心があるからですね。美しさも同じですね。
光のよろこびをより多く感じるには、影を強く体験してみる必要があるように、人生のよろこびを深く知るには、人生の影の部分にも深くかかわりを持つ必要があると考えませんか。
そう考えますと、真のよろこび、真の充実感を得た人は、そこそこの幸せな人生を過ごした人よりは多分、深い苦しみ、悲しみの底を体験し、その底の奥から光をみた人であろうと私は想像します。
人生の表現にはよろこびであれ、悲しみや困難であれ深遠な意味が隠されている、そう思います。
むずかしい問いですね。私はこう考えます。人はこの世の中に表現をするために生まれてきたんじゃないかと。
まだ30代のはじめの頃、延々と続く壮大なドラマの夢を見て、眼がさめた時「あゝ人生はドラマなんだ」と痛切に思ったことがありますが、人はひとりひとり自分が主役の自作自演のドラマを演じて生きているんじゃないかなという気がします。
自分が意識しているいないに関わらず自分が人生を創りだして、あるいは選択して「今」の状況を生きている。そう思います。
この時代に生まれ、この環境を与えられ自分の生き様を表現していく。悪しきにも表現でき、見事な出来栄えにも表現できる、そうしたカラクリのなかに私たちは生きていると言えるんじゃないでしょうか。
映画も表現、絵画も表現、写真も表現。そうした表現されたものには、光と影がありますね。自然界も光と影の世界ですね。

光が善や幸せや美しさを表すなら、不幸や悪や醜さは影としてとらえるとわかりやすいですね。
つまり人生は善や幸せや美しさだけでは表現できないということになります。また、もし人生が光だけだったら、それが光であることにも気がつきません。影があるから光を知ることができますね。
人生で幸せだけの人は、それが幸せであることすらわからないでしょう。幸せの実感は不幸の実感があってはじめて感じられるものだと思いませんか。
善の行いに心が歓ぶのも、悪の行為に嫌悪する心があるからですね。美しさも同じですね。
光のよろこびをより多く感じるには、影を強く体験してみる必要があるように、人生のよろこびを深く知るには、人生の影の部分にも深くかかわりを持つ必要があると考えませんか。
そう考えますと、真のよろこび、真の充実感を得た人は、そこそこの幸せな人生を過ごした人よりは多分、深い苦しみ、悲しみの底を体験し、その底の奥から光をみた人であろうと私は想像します。
人生の表現にはよろこびであれ、悲しみや困難であれ深遠な意味が隠されている、そう思います。
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公開日:
最終更新日:2014/04/14